コンピュータ界の有名人スピーチ

初めて読むヤツも昔読んだヤツもありますな、あとでもっかい読もうっと

ビルゲイツ

1 人生は公平ではない。それに慣れよ。
2 世界は君の自尊心を気にかけてはくれない。君の気分に関係なく世界は君が仕事を終わらせることを期待している。
3 高校を出てすぐ6万ドルの年収を稼ぎはしない。携帯電話(当時は高かった)を持った副社長にもならない。自分で両方を稼ぎ出すまでは。
4 先生が厳しすぎると思うなら、上司を持ってみろ。
5 ハンバーガーを引っくり返すということは沽券(こけん)にかかわることではない。君たちの祖父母はハンバーガーを引っくり返すことを別の表現を使った。それはチャンスと呼ばれた。
6 君が失敗したらそれは両親のせいではない。文句を言わずに学べ。
7 君らが生まれる前は、君らの両親は今のように退屈な人たちではなかった。そんな風になったのは、君らのために支払いをし、服を洗い、君らがどんなにいけてるか、という自慢を聞いているうちにそうなったのだ。親の時代から生存する寄生虫から森を守る前に、自分の洋服ダンスのダニ駆除から始めよう。
8 学校は勝者・敗者を決めなくなったかもしれないが、人生は違う。学校によっては君が落ちこぼれないようにしてくれたり、正しい答えが導き出せるまで、何度でも機会をくれる。実際の人生とは全く似ても似つかない。
9 人生は学期ごとに分けられていない。夏休みは無いし、ほとんどの雇用主は君が自分を見出すことに興味を持たない。それは自分の時間にやれ。
10 テレビは本当の人生ではない。 現実では、人は喫茶店にいつまでもいられるわけはなく、仕事に行かなくてはいけないのだ。
11 オタクには親切にしよう。彼らの下で働く可能性が高い。

らばQ:ビル・ゲイツのスピーチ「学校では教えてくれない人生に役立つ11のルール」
http://labaq.com/archives/51032297.html

スティーブ・ジョブス

PART 1. BIRTH

 ありがとう。世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席でき大変光栄です。実を言うと私は大学を出たことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。

 本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。それだけです。どうってことないですよね、たった3つです。最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。

 私はリード大学を半年で退学しました。が、本当にやめてしまうまで18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って授業を聴講していました。じゃあ、なぜ辞めたんだ?ということになるんですけども、それは私が生まれる前の話に遡ります。

 私の生みの母親は若い未婚の院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。育ての親は大卒でなくては、そう彼女は固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていたんですね。ところがいざ私がポンと出てしまうと最後のギリギリの土壇場になってやっぱり女の子が欲しいということになってしまった。で、養子縁組待ちのリストに名前が載っていた今の両親のところに夜も遅い時間に電話が行ったんです。「予定外の男の赤ちゃんが生まれてしまったんですけど、欲しいですか?」。彼らは「もちろん」と答えました。

 しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、二人のうち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし父親に至っては高校もロクに出ていないわけです。そうと知った生みの母親は養子縁組の最終書類にサインを拒みました。そうして何ヶ月かが経って今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さすがの母親も態度を和らげた、といういきさつがありました。

PART 2. COLLEGE DROP-OUT

 こうして私の人生はスタートしました。やがて17年後、私は本当に大学に入るわけなんだけど、何も考えずにスタンフォード並みに学費の高いカレッジを選んでしまったもんだから労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていくんですね。そうして6ヶ月も過ぎた頃には、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていた。自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない。なのに自分はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。だから退学を決めた。全てのことはうまく行くと信じてね。

 そりゃ当時はかなり怖かったですよ。ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思えます。だって退学した瞬間から興味のない必修科目はもう採る必要がないから、そういうのは止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにいけるんですからね。

 夢物語とは無縁の暮らしでした。寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セント玉がもらえるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりね。日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院でやっとまともなメシにありつける、これが無茶苦茶旨くてね。

 しかし、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたことの多くは、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたんだね。
 ひとつ具体的な話をしてみましょう。

PART 3. CONNECTING DOTS

 リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ教育を提供する大学でした。キャンパスのそれこそ至るところ、ポスター1枚から戸棚のひとつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。私は退学した身。もう普通のクラスには出なくていい。そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみることに決めたんです。

 セリフをやってサンセリフの書体もやって、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かを学んだり。それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になってしまったんですね。

 こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。だけど、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計する段になって、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきたんですね。で、僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。そうして完成したのは、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした。

 もし私が大学であのコースひとつ寄り道していなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単なるパクりに過ぎないので、パソコン全体で見回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。

 もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。

 そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。
 もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。

PART 4. FIRED FROM APPLE

 2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。

 私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができた。実家のガレージでウォズとアップルを始めたのは、私が二十歳の時でした。がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレージの我々たった二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業になりました。そうして自分たちが出しうる最高の作品、マッキントッシュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、クビになったんです。

 自分が始めた会社だろ?どうしたらクビになるんだ?と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。アップルが大きくなったので私の右腕として会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。そして最初の1年かそこらはうまく行った。けど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終わってしまった。いざ決裂する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を追い出されたと、そういうことです。しかも私が会社を放逐されたことは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。

 自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんですから、私はもうズタズタでした。数ヶ月はどうしたらいいのか本当に分からなかった。自分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまったんだ、そう感じました。このように最悪のかたちで全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで一時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。

 ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。私はまだ自分のやった仕事が好きでした。アップルでのイザコザはその気持ちをいささかも変えなかった。振られても、まだ好きなんですね。だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。

 その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。成功者であることの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった。そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで私はまた一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。

 それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。
 ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。

 思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルが買収し、私はアップルに復帰。NeXTで開発した技術は現在アップルが進める企業再生努力の中心にあります。ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。

 アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。そりゃひどい味の薬でしたよ。でも患者にはそれが必要なんだろうね。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信念を放り投げちゃいけない。私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることなんですね。まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっちゃ駄目です。心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。だから探し続けること。落ち着いてしまってはいけない。

PART 5. ABOUT DEATH

 3つ目は、死に関するお話です。

 私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。

 自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。

 君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。
              
PART 6. DIAGNOSED WITH CANCER

 今から1年ほど前、私は癌と診断されました。 朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。

 医師たちは私に言いました。これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。

 それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。たった数ヶ月でね。それはつまり自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということです。それはつまり、さよならを告げる、ということです。

 私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診てもらったんですね。内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医師たちはすい臓に針で穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。私は鎮静剤を服用していたのでよく分からなかったんですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。何故ならそれは、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かったからなんです。こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。

 これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。

 以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだら、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。

 君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。

PART 7. STAY HUNGRY, STAY FOOLISH

 私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。

 それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げていました。時代は60年代後半。パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作っていた。だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。

 スチュアートと彼のチームはこの”The Whole Earth Catalogue”の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。それが70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。

 最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。「Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。「Stay hungry, stay foolish.」

 それからというもの私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。

Stay hungry, stay foolish.

ご清聴ありがとうございました。

the Stanford University Commencement address by Steve Jobs CEO, Apple Computer CEO, Pixar Animation Studios
翻訳 市村佐登美

ラリーペイジ

「23歳のとき(注:1973年生まれなので、1996年)こんな夢を見ました。『もしすべてのウェブをダウンロードして、そのリンクを保っておくことが出来たら・・・』。それで目覚めて、ペンをもって、メモし始めました。真夜中に細かい部分まで一気に書き、それが動く(work)ということを確信しました。そのあと、アドバイザーのTerry Winogradに、ウェブをダウンロードするのに数週間かかるだろうと話すと、彼は、もっともだというふうに頷きました。本当は彼は、それよりはるかに時間がかかるということを知っていたのです。でも彼は賢明だったので、そのとき僕にそれを言いませんでした。若さゆえのオプティミズムというのは、普通思われている以上に重要なのです! そのときには、サーチエンジンをつくることは思いつきませんでしたが、ずっとあとになって、僕たちは本当に優れたサーチエンジンをつくるための、ウェブページをランキングするもっと良い方法を思いつきました。それで、グーグルが誕生したのです。本当にすごい夢が姿を現したときは、つかまえなくちゃいけない!」


「僕はこのミシガン大学で、『夢を実現する方法』について教わったことがあるのです。サマー・キャンプでのLeadershape(リーダー養成)というプログラムにおいて。そこでのスローガンは、"healthy disregard for the impossible"(不可能についての健全な無関心)というものでした。そのプログラムは、そのときの僕のcrazy idea を追究するのに実際に役立ちました。」


「途方もない夢を実現へとすすめることは、けっこうたやすいのです。まさか、と思うかもしれませんが、ほかの誰もが『そんなcrazyなことはできない』と思うアイデアであれば、競争相手はほとんどいないということになります。」

夢を実現する方法(ラリー・ペイジの場合) - The Power of Words
http://d.hatena.ne.jp/fukukm10889/20090520/1242790664

ラリーペイジ2

大きなことをするほうが小さなことをするより容易だ。変に聞こえるだろうが、本当に大きなことをしていると、他の人の助けが得られる。より多くの人が助けてくれる。必要な資源がより多く手に入る。だから、大きなことを世界を舞台に成し遂げることは考えるに値する。

12 歳のとき発明家になりたいと思った。そしてあるとき、テスラーの伝記を読んだ。テスラーは言うまでもなく偉大な電気工学エンジニアだ。テスラーは変圧器やその他の現在使われている多くの物を発明した。テスラーは驚異的な発明家だったが研究に必要な資源を得ることができず、発明を世界に広めることができなかった。私はそれを読んで悲しい気持ちになった。なぜテスラーは大きな苦労を背負ったのか。そして自分は、単なる発明家ではなく、物事をすること通じて世界を変えるのに十分な資源を持った人物になりたいと思った。

エンジニアとはそういうものだと思う。エンジニアとは科学者と科学を実際の物に適用して現実世界で物事を起こす人との組み合わせだ。それは素晴らしいことだ。今、多くの人がエンジニアリングを使いっぱしりか収入を得る手段としか考えていない。しかし、エンジニアこそが巨大な変化をもたらすことができるのだ。ちょうどGoogleのコンピュータと何百万人の利用者のように、君たち2・3人で、世界中の誰もが使い始め、生活を向上させたり、大きな影響を受けたりする何かを作り出すことができるのだ。そのような職業は非常に稀だ。

世界は簡単にわき道にそれてしまう。君たちは公務員、会社経営、大学経営、その他何をやってもいい。なぜなら、そういった職業では、エンジニアリングの考え方を身に付けた人がとてもとても少ないからだ。シリコン・バレーでさえ、私のようにテクノロジストかつエンジニアの頭を持った企業幹部は稀だ。そのような人は非常に少ない。

我々はエリック・シュミットをCEOとして雇った。シュミットを探し当てるのに1年半ほどかかった。我々が面接した中で数少ない計算機科学の博士号を持つ人物だった。たぶん株式を公開している大企業のCEOを勤めた人物で計算機科学の博士号を持つのはシュミットだけでだろう。我々はそれが重要だと考えた。我々はGoogleがエンジニアリングの会社であって欲しい。ビジネスや販売の会社であって欲しくはない。君たちにこのことを考えることを強くお薦めする。世界を変えたいのなら、力のある立場、リーダーの立場に身を置くのが良い。世界は君たちを待っている。

リスクについて少し話しておこう。私はリスクを恐れてGoogleを始めるのを非常にためらった。ご存知の通り博士課程を中退しなければならなかったからだ。大いに悩んだ。中退したら戻れない。でも大したことじゃないと思うことにした。失業するのとは違う。Googleがうまくいかなくても上々の暮らしは送れるはずだ。

Googleではイノベーションとリスクを強く奨励している。でも、それはなかなか自然には起こらない。特に会社の中では。そこで従業員全員に20%の時間を与えている。その時間は何でも一番やりたいことを自由にやるのだ。その中からイノベーションが生まれている。 GmailGoogle Mapsもそうやって生まれた。

そして、チームの規模を非常に小さくしている。最初は1人だけのこともある。ほとんどのチームは2・3人だ。一旦軌道に乗ると、沢山の人がかかわり始める。イノベーションは小さなグループから起こるものだ。

また、我々は70-20-10と呼ばれる基準を使っている。会社の70%は主な収入源、つまり検索と広告に焦点を当てる、20%はそれに関連することがら、そして10%はその他である。

君たちは、ビジネスの分野に興味を持って多くの本を読む必要がある。私は本棚1つ分のビジネス書を読んだ。そして私にはそれが必要だった。多くの驚くべきビジネス上の洞察が、別のビジネス分野の人によってもたらされている。

その例の1つがバンク・オブ・アメリカの創業者A. P. Gianniniだ。Gianniniは別のビジネス分野で成功していて、ある銀行の社外取締役になった。そして取締役会の方針に怒りを覚えて、ある日取締役の会議から飛び出して自分の銀行を作ってしまった。怒りにまかせてのことである。Gianniniは貧しい人にお金を貸すべきだと考えた。そしてそれはうまく行った。その新しい銀行はサンフランシスコが地震のあといち早く復興する大きな助けになった。

私からのアドバイスはこうだ。自信を持て。頻繁に失敗しろ。不可能に対して健全な疑念を持て。君たちにはエンジニアリング、テクノロジー、ビジネスの能力を活用して世界を変える大いなるチャンスがある。重要なことをしろ。楽しめ。さもなければ成功は望めない。旅をしろ。中国・アフリカ・インドがお薦めだ。そこには驚くべきことが沢山ある。

最後に。今や君たちはミシガン大学卒のエンジニアだ。夢を実現することで世界を救って欲しい。

Googleのラリー・ページのミシガン大学卒業式でのスピーチ - himazu blog
http://d.hatena.ne.jp/himazublog/20051107/1131301509